「チロ」という名は、伯父が付けたものなのか、伯母が付けたものなのか、いまとなってはもう分からない。
『仔猫の頃にチョロチョロしていたから・・』
きっと、そんな理由で付けられた名前だと勝手に判断している。
性別にしたって、
「なぁ・・チロって・・オスだよなぁ?」
部屋を片付けながら女房に問うと、
「えっ?メスでしょう?だって、チロだもん」
「いや・・オスだよ。伯父さんは確かそう言ってた」
「メスだと思うんだけどなぁ・・」
と、まぁ、こんな始末である。
警戒心が強く、なかなか人になつかないのは、仔猫の頃に近所の犬だか猫だかに瀕死の重傷を負わされたからだと、確か伯母はそう言っていた。
もう15年以上生きており、人間で言えば90歳以上だと、確か伯父はそう言っていた。
黒よりも少し灰色がかった長い毛と、金色の眼が特徴で、身体は結構大きい。
泣き声はとても可愛らしいのだが。
僕ともかれこれ10年以上の付き合いがある訳だが、つい最近まで僕の姿を見るとすぐに逃げ出していた。
伯父が入院してエサをやるようになってから、やっと僕の声に対しては反応してくれるようになった。
「チロ」
「にゃぁー」
「ほら、ごはんだよ」
「にゃぁー」
「食べろよ」
「にゃぁー」
とまぁ、こんな感じではあるのだが。
相変わらず、一歩近付くと逃げる。
僕はひどい猫アレルギーで、猫を飼っている家に遊びに行くと、鼻が詰まって喉がヒューヒュー鳴り出して、まるで喘息のような症状になってしまう。
伯父がまだ和室に寝ていた頃、チロは昼間は勝手にそこいら中をさまよい歩き、夜になると家に戻って来て、伯父が寝ている布団の脇で小さくなって眠っていた。
伯父が入院してしまってからは、ほとんど空き家になっている家の窓を開けっ放しにする訳にもいかず、外に締め出されてしまった。
エサは、伯父とは長い付き合いの隣の中華料理屋のおばさんが朝晩庭に置いてくれている。伯父と話して、物置の引き戸を少しだけ開けておいて、その中にチロ用の小さなベッドを置いておいた。いつの間にか、気が向いたときにはここで眠っているようだ。
夕方、少し疲れて台所でウトウトしていると、遠くでチロの声がする。
寝ぼけ眼を擦りながら、カーテン越しに庭を見渡したのだが、何処にもいない。
ふと、脇に目をやると、丸くなって縁側に横たわっていた。
庭に出て近付いてみると、今日は逃げない。
「チロ」
「にゃぁー」
「ここにいたのか」
「にゃぁー」
「チロ」
「にゃぁー」
「伯父さん・・死んじゃったよ」
「・・・」
僕の発する単語に必ず答えていたチロは、黙ったまま金色の眼で僕を見上げている。
「チロ」
「にゃぁー」
「伯父さん・・死んじゃったってば」
「・・・」
『僕の言葉が分かるのだろうか・・』
そういえば、ここ2日はエサも食べていない。
チロの両耳の周りを大きな蚊がブンブン飛んでいる。
チロの耳は信じられないほどの速さで小刻みに動き、蚊を追い払っている。
『蚊の野郎・・バカにしやがって・・チロだってまだこんなに動けるんだ』
ふと、自分の左腕を見ると、まだら色の蚊が止まっている。
右手で追い払うと、既にたっぷりと血を吸い終えたのか、ノロノロと飛んでゆく。
殺す気も失せて、蚊の行く先を目で追っていたら、庭中ウンザリするほど雑草が伸びている。
生命は残酷で、不平等で、ときどきめまいとか、吐き気とかを感じさせてくれる。
チロは僕の脇を通り、鉄柵の間をすり抜けて、路地に出て行ってしまった。
思わず立ち上がり、後を追うと、もう数十メートルも先を歩いている。
「チロ!」
名前を呼ぶと、立ち止まり小首をかしげて僕を見やった。
そして、何も言わずに、そのまま路地の突き当たりにある空き地に消えていった。
その夜は、なんだかチロのことが気になって良く眠れなかった。
あれがチロを見かけた最期・・なんてことになると何だかいたたまれない。
翌朝、庭に出て物置の前にあるボウルを見るとエサが無くなっていた。
ちょっと安心して、また片付けをしていたら、庭先でチロの声がする。
サンダルを履いて庭に出ると、隣家との塀の上に寝そべっている。
近付いてゆくと、珍しく今日も逃げない。
手が届くところまで近付いて、おそるおそる頭を撫でてやると、いつもの声で、
「にゃぁー」と鳴いた。
喉元をさすってやると、気持ちよさそうに、もう一度「にゃぁー」と鳴いた。
ちょっと、感動した。
「チロ」
「にゃぁー」
「ごめんな」
「にゃぁー」
「エサは隣のおばさんがくれるから」
「にゃぁー」
「オレ、今日帰るからな。伯父さんの遺骨も連れて帰るぞ」
「・・・」
『やっぱり、言葉が分かるんだろうか・・』
伯父さんは最期までチロのことを心配していた。
「いいかげん・・早く死んで欲しいんだよなぁ・・」
病床でそんな言葉を何度も口にしていた。
ときとして誤解されることもあるが、想いとは色んな形で表現される。
もう喪主も3回経験した。ベテランだ。
チロ。
お前も僕が見送ってやる。
猫アレルギーだけれど(笑)