もう5年ほど前の或る夏の夜の出来事だ。
いつもより少し早い23時頃、布団に寝そべっていた僕は、当初なかなか寝付けずにいたのだが、薄暗がりの中で襖と畳の接点の直線を目で追っている間に、徐々に心地良い眠気を感じつつあった。
うっすらと開いた両目に映る景色が、視界の外側から段々と薄暗くなっていくような感覚を覚えながらも、意識はまだハッキリとしており、国道を通過する車の音やマンションの通路を歩く人の足音などをキチンと認識していた。
突然、自分の頭の真後ろで微かに人の呼吸音がすることに気がついた。
普段ならばあまり気にせずにそのまま眠りに入ってしまうところだったが、何故か気になり半身を起こして、女房の姿を探した。
いつの間にか女房が僕の真後ろで眠っており、その呼吸音が聴こえているのかと思ったのだ。
ところが女房は、僕の頭の位置から1メートルほど離れた位置で熟睡していた。僕はちょっと気味が悪くなって自分の呼吸を止めたまま、女房の呼吸音が聴こえるかどうか耳を澄ましてみた。
すると、ここからでも女房の呼吸音は微かに聴こえて来るのだが、僕が自分の呼吸を止めているにも関わらず、僕の頭の後ろからは、更にもう1つ別の呼吸音が聴こえてくる。僕は自分の鼻から少しだけ息を吐き出して再び呼吸を始めた。この時点ではもう、完全に目は覚めてしまっている。
もう一度、慎重にゆっくりと、自分の呼吸音と女房の呼吸音を確認してみる。
確かに2つの呼吸音が聴こえている。
でも、聴こえないはずの、もう1つの呼吸音もちゃんと聴こえてくるのだ。
『あぁ・・来てんのかなぁ・・』
僕はちょっとした諦めと共に、自分の背後にピッタリと、"肉体ではない何か"が居ることを想像する。
こういった体験は若い頃からあるのだが、僕の場合は年に数回ほど続けて体験があったり、数年間何の体験も無いときがあるから、自分でもコントロールなどは出来ないし、誰かや何かの役に立つ訳でも無い。
ただ、そのときの状況をじっと受け入れるしか成す術がないのだ。
右頬の下に手の平を置いて肘を立て、僕は横向きに寝そべるような姿勢に変えた。
そして、
『まぁ・・どうでもいいや・・悪いけど・・俺は何にも出来ませんよ・・』
なんて感じで、いつものようにちょっと投げやりな言葉を心の中で呟いていた。
すると突然、天井側にある左の肩を指先で強く押された。
何とも説明しがたいのだが・・この感覚も物凄く不思議で、相手は人差指と中指と薬指の3本の指で、威嚇するような感じでは無く、まるで呼びかけても気付かない僕に困って指先で押してきたような・・そんな感じで背中を押してきたのだ。
僕はバランスを失って前方に倒れた。
顔を布団に押し付けたまま、女房の方を見ると、相変わらずさっきの位置から動かぬまま熟睡している。
耳を澄ますと、3つの呼吸音の1つは消えていた。
"負の感情"とか"恐い"というよりは、何だか"ちょっとした笑える悪戯"をされたような、そんな感覚が僕の中に残っていた。
翌日、仕事を終えて家に帰り晩飯を食べていると、
「ねぇ・・今日・・小学校のお母さんからね・・『お宅の娘さん、昨日・・学校帰りに友達と一緒に、倒れた墓石を一生懸命持ち上げて直していたわよ!』って言われたのよぉ・・あの子、何にも言わないのねぇ・・そう言うこと」
と笑いながら女房が言ってきた。
「へぇ~・・そんなことしてたんだ・・いいとこあるじゃん・・あいつも」
僕がそう言うと、
「なんでそんなことしたの?って聞いてみたら、『なんだか倒れていて可哀相だったから・・でも死ぬほど重かったぁ・・』だって!何かいい事あるかもねっ!」
女房は嬉しそうに、でもちょっとだけ、自分の娘がそんな善行を働いたことを得意そうに話した。
「そっか・・いい事があるかどうかは分かんないけど・・お礼には来たよ・・」
箸を動かしながら僕が言うと、
「えぇ~っ!なにそれっ!」
と女房が尋ねてきたので、僕は昨晩の話をしてやった。
女房はちょっと恐がっていたが、自分の寝息が1メートルも離れたところまで聴こえていたことに対して愕然としつつも、そちらが自分の笑いのツボに入ってしまったようで、ニヤニヤしながら子供部屋に消えていってしまった。
観てもいない点けっぱなしのテレビの画面を眺めながら、もう一度昨晩の出来事を考えていると、何だか暖かい気持ちになると同時に少しだけ可笑しさが込み上げてきた。
『お墓の中の人・・なのかなぁ・・誰だか分かんないけど・・きっと最初は娘の部屋に行ったんだろうな・・でもいくら頑張っても頑張っても、鈍感な娘はまったく気付かずに、大口を開けて眠りこけていたんだろうなぁ・・それで仕方が無いから諦めて俺んとこに来たのかなぁ・・』
そう思うと、その人が娘の周りで四苦八苦している姿を想像して可笑しくなると同時に、なんだかとても律儀な礼儀正しいおじいさんのような気がして、不思議と愛着が湧いて来たのだった。
『こちらこそ・・わざわざ・・ありがとうございます・・ちょっと恐かったっすけど・・』
遅い時間に1人で晩飯を食べながら、窓の外に見える夜景に向かって僕は心の中で呟く。
生きているのって、不思議だ。
死ぬってことも、とっても不思議だけれど。
だから、死んだ後っていうのも、すっごく不思議なんだろう。
背筋を伸ばした老人が、月明かりの下で屹然として立っている。
置き直されて真っ直ぐに立つ墓碑は、
遠目から眺めると、そんな姿に見えるのかも知れない。
ふと、そんな想いを馳せつつ、白米を何度も噛み締める。
不思議だらけの世界で、僕は何も知らぬまま生きている。


